モノやサービスの値段は、需要と供給のバランスで決められている。
需要と供給のバランスが崩れると、値段は変動する。この動きが、他のモノやサービス全般に広がっていくと、物価(モノやサービスを総合的に表したもの)が変動する。
一般的には、物価が継続して上昇する状態をインフレーション、略してインフレと呼ぶ。
日本のインフレ
江戸時代の 徳川綱吉 のときに勘定吟味役 荻原重秀 が、幕府の財政拡大による財政赤字増大と元禄・宝永の改鋳による金銀含有率の引き下げをおこない、インフレとなった。その次の 新井白石 が幕府の歳出を減らし、正徳・享保の改鋳で金銀含有比率を 慶長小判 の水準に戻して、インフレを抑制した。 その次の 徳川吉宗 の 享保の改革 においても金銀含有比率を維持するために緊縮財政を続けたが、米などの物価が下落したので、元文の改鋳を行い貨幣流通量を増加させ、デフレを抑制した。
第二次世界大戦 中の日本政府の借入金総額は国家財政の約9倍に達していた。戦争中は統制経済と戦時 国債 の個人購入で資金を吸収して、戦時インフレ傾向を抑えていたが、敗戦でこの仕組みが崩壊し、インフレ傾向が一気に表面化した。なおかつ、政府が軍発注物資の代金を一挙に払ったため通貨の大幅な供給過剰に陥り、ハイパーインフレが発生した。
日本政府は 預金封鎖 と 新円切替 で、通貨の流通量を強引に減らしてこのハイパーインフレを抑えたが、 傾斜生産方式 による復興政策が始まると復興金融金庫から 鉄鋼 産業と 石炭 産業に大量の資金が融資された結果、復興インフレが発生した。インフレを抑えるために融資を絞ると生産力が鈍るために、融資を絞ったり拡大したりする不安定な経済状態が続いた。また、これらインフレへの対策の一環として、1946年秋には浮動通貨の吸収を緊急の目的に 日本競馬会 による 競馬 が再開されている。
アメリカから大統領特命公使として ジョゼフ・ドッジ が派遣され、 ドッジ・ライン と呼ばれる経済政策(超均衡予算と復興金融債の復興債発行禁止など)を行なった。ドッジ・ラインによりインフレは収まり、物価は安定したが、資金の引き上げや貸し渋りによる企業の倒産と失業が増加し、安定恐慌と呼ばれた。 朝鮮戦争 の勃発により戦時物資や役務の調達に伴う需要が増大し、この特別需要( 朝鮮特需 )により、生産活動が活発化して景気が上昇し、緩やかなインフレに移行した。
1955年 からは 高度経済成長 が始まりインフレが進む。 1973年 〜74年および 1979年 の2回にわたるオイルショックでは一時的に急激なインフレが発生した。その後インフレ傾向は弱くなった反面、 投機 に支えられた バブル経済 のもとで 資産インフレ が急激に進行、しかし 三重野康 総裁の指導下で 日本銀行 が 1989年 から金利を急激に引き締めたことに起因して 資産インフレ が終焉を迎え、 1992年 からは 資産デフレ が進行した。 1999年 以降明確にデフレーションに入り( 良いデフレ論争 )、日銀の 速水優 総裁の下における ゼロ金利政策 解除等の政策とあいまって、ことに 資産デフレ 傾向は強化された。(いわゆる「 失われた10年 」)。
ドイツのインフレ
第一次世界大戦 後のドイツでは、 連合国 側に対して1320億金マルクの賠償金支払いが課された。しかし、これはドイツの支払い能力を大きく上回っており賠償金の支払いは滞った。これを理由に 1923年 、イギリスの反対を押し切ってフランス・ベルギーが屈指の工業地帯であり地下資源が豊富な ルール地方 を軍事占領した。このため、従来の賠償金支払いに加えて、地下資源を輸入に依存せざるを得なくなり、現地で進駐に抵抗する ストライキ を起こした住民への経済的補償も必要とされた。既に第一次世界大戦中よりドイツではインフレが進行していたが、これらの事態は事態を致命的な状況へと導き、空前のハイパーインフレが発生した。この結果、1年間で対ドルレートで7ケタ以上も下落するインフレとなり、100兆マルク紙幣も発行された。
この破滅的な状況下で、ドイツの人々は ヴェルサユ体制 への不満を募らせたが、 シュトレーゼマン 首相の レンテンマルク 発行などにより奇跡的にインフレが収拾されたこともあり、この段階では議会制民主主義が揺らぐことはなかった。このインフレ期に アドルフ・ヒトラー が起こした ミュンヘン一揆 も、失敗に終わっている。
しかし、1929年の 世界恐慌 でドイツ経済が再び崩壊すると、議会制民主主義への信頼は失われ、ヴェルサイユ体制打破を掲げる 権威主義 的な ナチス への支持が急増し、 ファシズム 政権の成立へと至った。 |